リャザン(リャザニ;ロシア語: Рязаньリャザーニ)

もともと、リャザン公国の首都リャザンは、現在のリャザンから南東に50kmほどのオカ川下流に位置していた(現在のスターラヤ・リャザーニ Старая Рязаньの村)。フィン・ウゴル系民族のいた地に進出してきたスラヴ人は8世紀頃から現在のリャザンの場所に木造で要塞を築いたとみられる。現在のリャザン・クレムリンのうち最古の部分は12世紀に遡る。

現在のリャザンが記録に初出したのは1095年のことで、当時はペレスラヴリ(Переяславль, Pereslavl)と呼ばれ、旧リャザン(スターラヤ・リャザーニ)を中心に1078年から存在したリャザン公国の一部だった。ペレスラヴリには1095年にはすでに聖ニコライ聖堂が存在しており一帯の精神的中心であったが、この聖堂は1611年の戦争で破壊されている。その他にも聖ボリスとグレブ聖堂など多くの聖堂が建ち、ムーロムとリャザンの主教、およびムーロム=リャザンの大公も屋敷を構えていた。

オカ川沿いに建つ旧リャザンおよびペレスラヴリは、北欧方面とヴォルガ川流域・中央アジアを結ぶ交易都市であり、その繁栄は12世紀のアラブの旅行者アブ・ハーミド・アル=ガルナーティー(Abu Hamid al-Gharnati)の旅行記にも記されている。北の森林地帯と南のステップ地帯の境界に位置する街であったが、ハザール、ペチェネグ、ポロヴェツなどステップからの侵入者による襲撃が絶えなかった。またルーシ諸公国同士の争いも多く、1176年にはコロムナをめぐりキエフ大公と対立し、1180年にはペレスラヴリがフセヴォロド3世の軍により占領され焼き尽くされ、大公の部下たちや主教までがウラジーミルへと連行された。

13世紀初頭にはリャザン公国にはつかの間の平穏が訪れ、旧リャザンは15,000人、ペレスラヴリは2,000人ほどの人口を抱えていた。しかし旧リャザンは1237年12月21日、モンゴル帝国のバトゥの来襲によって略奪破壊されたロシア最初の街となり、以後完全に再建されることはなかった。リャザン公国の町々もことごとく灰燼に帰したが、ペレスラヴリは当時経済的重要性も失われておりほぼ無傷で残った。13世紀末には主教もペレスラヴリに戻り、14世紀初頭にはリャザン公国の首都は55km離れたペレスラヴリに移され、ペレスラヴリ・リャザンスキー(Переяславль-Рязанский, Pereslavl-Ryazansky)と呼ばれるようになった。これが現在のリャザンである。
update:2009年09月14日